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2010/10/26 関心の互酬性と教育

序 ― このarticleの目的について ―

このarticleは「関心の互酬性へ向けた教育的取り組み」という案に関するものである。 そして、本案はいわばミッドナイトラボラトリーにて考案されたものである。 ミッドナイトラボラトリーと言えば聞こえはよいが、 要するに、夜な夜な某ファーストフード店の一角を占拠して、 言いたい放題やりたい放題やっていたところで考案されたものである。 したがって、この案はTyu-genのみの成果物というものではなくすぐれて共同研究的性格を有するものである。 なお、共同研究者はnao氏であり、今後も本案に係る継続研究を行うことで合意している (要するに、どこかのお店がとばっちりを受けるということである)。

今回は今後の継続研究のための地形図を作成することを目的としており、 いかなる議論が提出されていたのかを、創造的に再現することを試みる。

導入議論 ― 「教養」というものをどのように位置づけるか? ―

『科学技術と知の精神文化 新しい科学技術文明の構築に向けて』(科学技術振興機構社会技術研究開発センター編、丸善プラネット、2009) という書物によると、日本は諸外国の技術を根付かせることは上手くいったものの、その背景にある思想は根付かなかった、そうである。 科学技術が無思想的に個人の利益を優先することに重きを置くことは、未来に向けては相応しいものではないとしており、 そのためには「知のエートス」の構築という、日本が歴史的に怠ってきた思想構築作業を重点化しなければならないと示唆している。 そこでキーワードとなるのが「創造」、「倫理」、そして「教養」だとしている。

「教養」というのは一口で言うのは簡単なのだが、それがいったい何を意味しているのかが難しい。 そのため、我々は「教養」に関して議論を行った。その際、具体的に「教養がない」と言われる事例について分析するというアプローチをとった。

ここで分析した事例は、私の友人が 「最近、自分の専門と専門に派生することについてはよく勉強しているのに、政治、経済、思想といった専門から疎遠な領域に対する関心が希薄な学生が多い。」ということをもって 「「教養」が無い。」と表現していた事例である。

まず、対論が提出された。端的に言えば「興味関心の内容が異なるだけで、行為の形式としては同じことをやっているのではないか?」ということになるかと思う。 つまり、「政治、経済、思想に関心を有すること=教養がある」とするのは高級知識人の衒学的な発想なのであって、 たまたま一般的には「政治、経済、思想」という語が「音楽、趣味等」という語に置換されてあるだけで、やっていることは同じなのではないか?ということである。

それは一理あるという話であったものの、もう少し詳細に分析してみると、 「興味関心の内容の追及」という知識的な側面の問題であるよりか、 「自分が関心のないことは、そもそも受け付けない。」 という態度的な側面の問題なのではないかということが提起された。

これに準拠して、「教養」があるということはどういうことなのか?ということに回答するならば、 「相手の関心のあることに関心を持つこと。」なのではないか?ということとなった。 これは学びの本質を突いているのではないかということになり、我々の間では教育を考える上での重要な洞察として定式化されるに至った。 (「まなぶ」というのが「まねぶ」に由来するというのも、この洞察が学びの本質を突いていることを支持するものとなるだろう。)

そこで「相手の関心のあることに関心を持つ」ということを実現するにはどのようにしたらよいのだろうか? ということで、実現のための制度設計に関して議論を始めることとなった。広い意味で教育政策論議である。

(以上のように、定式「相手の関心のあることに関心を持つこと」というのは、 もともとは「教養」を論ずる場面から得られたものだったかと思う。 われわれはこの後、制度設計を行うにあたり、本定式が導入されるべき理由として、 「相手を思いやるという言説や、個人そのものの良さや魅力を重視するという言説はあれども、両者を綜合した言説が不在である。 本定式は両者を綜合する言説を与えうる。」という言説体レベルでの画期性と 「個々人の興味関心の表現を促進しうる環境を形成する上での傾聴力の涵養」という、社会問題(心の問題)解決への寄与を挙げていた。 このあたりの理屈付けについてはもう少し体系性が必要に思われる。(何が重点的な現状問題であり、どの青写真の実現が重点的なのか?等))

制度設計議論 ― どこの教育システムで実施するのか? ―

かくして、「相手の関心のあることに関心を持つ」という定式を満たす教育のための制度設計のための議論を行った。 「相手の関心のあることに関心を持つ」にあたり、基本単位となるペアを構成することが必要となるので、まずはその構成方法を検討した。

当初、我々は比較的広範のグループを母集団として想定していた節があり、ITアーキティクチャによってこれを実現できまいかということを考察していた。 例えば、個々人をネットシステム上に布置し、ネットシステム上での無作為抽出によって見知らぬ人同士がペアを組む、というようなことを考えていた。 (ちなみに、私はこれを主に大学などの高等教育機関において実施してみてはどうかという前提で考えていた。 完全に見知らぬ人間同士であっても、ある程度のコミュニケーション能力が期待されるからである。)

ただ、既存のシステムを利活用するという発想をするのであれば、何も仰々しくITシステムを導入しなくとも、 「教室」という規律型管理システムも存在しているため、ペアリングをするのであればもはや隣の席の人でもいいのではないか? というようなローカル方向からアプローチすることも可能であった。これはどちらかというと、初等中等教育を念頭に置いた発想であったと思う。

このように、基本単位となるペアを構成するにあたって、ITアプローチと教室アプローチの二つが考えられていた。 どちらを採用するかに際しては、「相手の関心のあることに関心を持つ」の「相手」をどのような存在者として規定するのか? という観点から論じられた。すなわち、ITアプローチにおいては「相手」は「身体的に不可触範囲の他者」であるという予断があるわけで、また、教室アプローチにおいては「相手」は「身体的に可触範囲の他者」であるという予断があるわけなので、 どちらの他者がよいのだろうか?という問題を論ずることとなった。

ただ、このような形で論じられるというのは、われわれのバックグラウンドに身体論があるからに他ならず、したがって、議論としては若干出来レースであったという見方もできる。 つまり、われわれには事実上教室アプローチだという予断があったとも見れる。 それを示唆するかのように、ITアプローチの他者をいかにして親密圏に落とし込んでくるのか?ということが専ら議論の対象となっっていた。

例えば我々は、母集団とペアリング方法を制御するということを考えていた。母集団については会おうと思えば会える範囲とし、 ペアリング方法としては事前にアンケートをとっておき、興味関心に共通点がありながらも相違点があるようにペアリングする、というようなことが論じられていた。

(また、ペアリングの方法を参加者にオープンにするかどうかという問題もあった。 われわれはどのような結論を出したのか覚えていないのだが、私はオープンにしないというのが面白いという見解を持っている。 参加者にとっては相手がまさに「異質の他者」として知覚されうる環境を設定しておけば、まずは身構えるはずである。 そこでは他者に接する上での規律が働き、とりあえず円滑なコミュニケーションをしようと試みるはずで、 その中で共通点を探索発見してしまうプロセスというのはある意味素朴な喜びをもたらすものなのではないかと思うからである。)

このように、ITアプローチについての詳細な議論がなされたものの、 最終的には導入コスト的な側面とおそらく身体論的予断も働いて、我々は初等中等教育における「教室」を制度設計上の実施単位として想定することになった。そこで、具体的な実施方法について検討を進めることとした。

教育設計議論―どのようにして相手の関心に関心を向けさせるか?―

当初、nao氏の専門領域ということもあり「教科書」というのがキィワードになっていたように思う。 つまり、各々の学生が自分の興味関心のあることについて教科書を作って持ち寄るという方向から考えられていた。

ただ、何の因果かTyu-genは自分の体験してきた授業でこれは面白かった、というものは何だったかということに思いを巡らせていて、 議論というより、謎にエピソードを語りをはじめた(「わしの若いころは・・・」というのは老人のすることである。老いたなぁ)。

そのエピソードというのは概念化するなら「共同作文のこころみ」とでも言えるものかと思う。 具体的には、物語を起承結の形式にそって作るという課題だったのだが、教室内の無作為抽出によって構成された3人チームでこの課題に取り組もうというようなものだったのである。

ただ、この共同作文の面白いところは、3人で討議しながら一貫したプロセスの中で起転結の物語をつくるわけではない点にある。 それぞれが起承結のモジュールを担当して、それはもう自由に書くというもので、モジュール間での整合性を巡る討議や調整は皆無だったのである。

もう少し具体的に言うと、
1.Aさん、Bさん、Cさんがチームを組む。
2.Aさんは起を担当、Bさんは承を担当、Cさんは結を担当。
3.Aさんは起を書いた後、Bさんに手渡す。
4.Bさんは起を読んだ後、Bさんの判断で承を書く。
5.Bさんは承を書いた後、Cさんに起と承を手渡す。
6.Cさんは起と承を読んだ後、Cさんの判断で結を書く。
7.読みまわす。
* なお、役割を入れ替えて同様のことを行うので、 一人あたりで見ると、それぞれ異なる物語の起、承、結を書くことになる。(例えば、Aさんの場合、Aさんの物語の起、Bさんの物語の承、Cさんの物語の結を担当するなど。)

この条件下で物語を作ると、書きたいように書けるので、それはもう自由で突拍子もない物語が量産されて腹筋が崩壊したものである。 (例えば、最初はほのぼのとした動物園のふれあいの光景を描いた物語だったのだが、 次には謎のウイルスに感染した動物がゾンビ化して人を襲い始め、 終いには感染が蔓延した終末を思わせる都市の中ガンアクションを繰り広げる、 というやりたい放題な物語が出来上がっていた。)

この「共同作文のこころみ」というエピソードであるが、これは相手の関心に即して自分の表現を行なう上でのプラットホームとして使えるということに進展した。 そこで、「相手の関心のあることに関心を持つ」という教育思想のもと、具体的に実施する教育の体系化を試みることとした。

まず、基本骨格は「共同作文のこころみ」の形式にのっとり、各人が各モジュールを担当するというものにした。 そして、制約条件の設定の仕方を変えることによって、段階を三段階にわたり発展させるということを考えた。 なお、我々は各段階に対して「ホップ、ステップ、ジャンプ」という呼称を措いた。

「ホップ」というのはいわば導入段階であり、先に記した通りの制約条件で実施するものである。 すなわち、「モジュール間での整合性を巡る討議や調整は行わない」という条件下でまずは自由に書いてみる段階である。

この段階の目的は、2つ挙げられる。
1.「共同作文のこころみ」に対する興味の喚起。
2.「ステップ」のための準備段階。
もう少し詳しく言うと、まずは参入障壁が高いと興味以前の問題となるため、自由に書けるというとっつきやすさと、面白い物語になってしまうというアトラクティブな両側面を担保しようと考えた。 また、面白い物語になってしまうという事実が実感できるため、これを共有事項として次の「ステップ」段階への導入にしようと考えた。

次に「ステップ」であるが、これは教育段階であり、作文をする上での制約条件を厳しめに設定して実施するものである。 すなわち、「モジュール間で討議、調整を行って書く」というルールを導入して実施するものである。

この「ステップ」の段階が「相手の関心のあることに関心を持つ」という教育思想上の肝になるところだと私は考えている。 「ホップ」の段階では他者の関心とは無縁であり得たが、「ステップ」の段階では他者の関心が具体的に考慮されることとなるからである。 この段階においては「面白い物語」というより、「一貫性のある物語」が作成され、なおかつ、それが学生に実感されることが目的となる。

最後に、「ジャンプ」の段階であるが、ここは若干nao氏と見解の相違がありそうな感触があったのでまずはnao氏の見解に即して記述すると、 この段階においては、各々の学生が自分の関心のある分野に関して教科書をつくり、学生各々のやり取りを通して関心が循環する状態を実現する、という「関心の互酬性」を想定した段階となっていたかと思う。

ただ、私はそれは「ジャンプ」の後の話(・・・「フライ?」)として想定しており、あくまで「ジャンプ」を「共同作文のこころみ」という枠内で考えていた。

私の考える「ジャンプ」というのは、制約条件として「モジュール間で討議、調整を行って書く」というのをあえて撤廃した状態にすることを想定していた。 したがって、討議調整するもしないも学生の判断に委ねる、という形を採り、「ホップ」の段階から学生がどのように変わったか(或いは、変わらなかったか)を可視化することが目的となる段階だと考えていた。 (そこで自発的に討議や調整が学生間で行われれば政策としては成功で、これらが行われないにしても整合性のある物語が出来上がるのであれば、それは非常に高度な他者理解をしていることになるため、成功と言えるだろう。)

いずれにせよ、青写真としては他者の関心あることに関心を向けるという風土を醸成することであり、以て「関心の互酬性」という状態が実現されるところにあることについては異論はないと思われる。

授業設計議論―どの時間割で実施するか?―

端的に言ってしまうと、総合的な学習の時間を利活用しようということになった。その理由自体は、現行の総合的な学習の時間の活用方法についての問題点を摘出し、それを解決すべきという論調でまとめてみた。

現状の問題点としては、
1.地域性があっても地域間でバラバラの取り組みであること。
2.地域の身近な問題を扱うにしても真に当事者意識を持ちにくい。
というところがあるのではないかと我々は考えた。 そのため、「共同作文のこころみ」によって地域間問わず同じ取り組みを実施すること、及び、身近な他者の関心をターゲットとするため当事者意識の涵養が実現されるのではないかという理屈をもって、総合的な学習の時間での実施を正当化するに至った。

まとめ―単純に言ってしまうなら―

まず我々は教養とは「相手の関心のあることの関心を持つ」こととして定式化を行った。 次に、この思想を具現化しうる教育制度設計を行い、「共同作文のこころみ」という事例を基本骨格としてその内実を検討した。 なお、これらのこころみは初等中等教育課程の総合的学習の時間で実施することを想定した。


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