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2015/08/14
「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」
―違憲/合憲解釈の物議を眺めて―

はじめに

第189回通常国会で内閣が提出した「平和安全法制」に係る法案 (「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」、「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」) の一部が、憲法解釈上物議を醸しています。具体的には、「平和安全法制」に係る法案によって新たに位置づけられる、いわゆる「集団的自衛権」の行使は、憲法解釈上合憲か違憲かということをめぐり、 主に政府・与党と野党・一般国民との間に政治的・感情的な亀裂が生じています。

このような社会状況を受け執筆に至った本記事のアウトラインは、次のとおりです。

1. 「集団的自衛権」の憲法解釈についての世間の政治運動でみられる意見と政府の見解を眺めた後、筆者の見解を示します。
2. 私たちは本件についてどのような希望をもつとよいのかについて、筆者が推奨したいことを語ります。

手早く内容を要約すると、違憲との見解もありますが、政府が提示する「集団的自衛権」は、政府が示した見解のとおり合憲だと筆者も認めます。 それは、政府が提示する「集団的自衛権」は、実のところ「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」なので、合憲だということです。 しかし、政府が提示する「集団的自衛権」は、抽象的には憲法に整合していますが、具体的にどのような状況で行使できるものなのか、筆者には想定できません。 筆者の見立てでは、そのような状況は「クラゲの骨」です。政府は「我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制を整備」するため、 現実と空想の切れ目もない、徹底した抜け目のなさをもって「平和安全法制」に係る法案を準備したのでしょう。

私たちは本件についてどのような希望をもつとよいのかについて、筆者が推奨したいことは、まず「違憲/合憲」、「廃案/強行採決」などの破壊的な言葉遣いをやめることです。 次に、本件で本当に問題になっているのは「集団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」のあり方だということを冷静に受け止めることです。 そして、「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について、国民レベルで時間をかけて議論を深めることです。

以下、本記事の目次です。

1. 世間の政治運動でみられる意見: 違憲

2. 政府の見解: 合憲

2.1. 「武力の行使」に関するもの

2.2. 「集団的自衛権」に関するもの

3. 筆者の見解: 合憲だけど「クラゲの骨」

3.1. 政府のいう「集団的自衛権」は、実のところ「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」

3.2. 政府のいう「集団的自衛権」が行使できるための要件である「存立危機事態」とは、どのような事態なのか

3.2.1. オフィシャルには「あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難」

3.2.2. 政府が与党協議会に提示した「事例集」

4. 私たちは本件についてどのような希望をもつとよいのかについて、筆者が推奨したいこと

4.1. まず「違憲/合憲」、「廃案/強行採決」などの破壊的な言葉遣いをやめること

4.2. 次に、本件で本当に問題になっているのは「集団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」のあり方だということを冷静に受け止めること

4.3. そして、「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について、国民レベルで時間をかけて議論を深めること

5. 付録

5.1. 「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」(平成27年6月9日付け内閣官房、内閣法制局連名文書)[全文]


1. 世間の政治運動で見られる意見: 違憲

第189回通常国会で内閣が提出した「平和安全法制」に係る法案(「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」、「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」) に対する、世間の政治運動で見られる意見は、心理的に言えば、拒絶的なものです。世間の政治運動でよく使われる、「憲法9条を守れ」といった顔なじみのジャーゴンの他、「戦争法案反対」、「廃案」といった言葉が、その拒絶感を端的にあらわしています。

今回の政治運動は、普段目にする政治運動と比較して、その運動の主体の層が厚いことに特徴があります。 高校生、大学生、主婦といった方々が、主体的に政治運動を企画して、政治運動に参画していることは、この法案の世間での話題性が高さを物語っています。

彼/彼女らの主張は、熱っぽく、時にリリカル(詩的)なものなので、その主張の全容や根拠とする論理を読み取ることは難しいですが、 私見では、それをうまく代弁していると思われる声明があります。「安全保障関連法案に反対する学者の会」(以下「学者の会」といいます。)が2015年6月に出した声明です。 声明のタイトルは「「戦争する国」へすすむ安全保障関連法案に反対します」です。

この声明から、彼/彼女らの主張と根拠とする論理を端的に表現していると考えられる部分を引用します。 (声明の全文に興味のある方は、「安全保障関連法案に反対する学者の会」のウェブサイトをご覧ください。)

(主張)
「「戦争しない国」から「戦争する国」へ、戦後70年の今、私たちは重大な岐路に立っています。安倍晋三政権は新法の「国際平和支援法」と10本の戦争関連法を改悪する「平和安全法制整備法案」を国会に提出し、審議が行われています。これらの法案は、アメリカなど他国が海外で行う軍事行動に、日本の自衛隊が協力し加担していくものであり、憲法九条に違反しています。私たちは憲法に基づき、国会が徹底審議をつくし、廃案とすることを強く求めます。 」

(根拠とする論理)
「安倍首相の言う「武力行使は限定的なもの」であるどころか、自衛隊の武力行使を際限なく広げ、「専守防衛」の建前に反することになります。武器を使用すれば、その場は交戦状態となり、憲法九条一項違反の「武力行使」となることは明らかです。60年以上にわたって積み重ねられてきた「集団的自衛権の行使は憲法違反」という政府解釈を安倍政権が覆したことで、米国の侵略戦争に日本の自衛隊が参戦する可能性さえ生じます。日本が戦争当事国となり、自衛隊が国際法違反の「侵略軍」となる危険性が現実のものとなります。 」

「安全保障関連法案に反対する学者」の方々が、「戦争する国」や「改悪」といった不穏当かつ私見では正確性を欠く表現で、政権に対する挑発的な政治運動家と同じような装いをしていることは、 学者の方々のパフォーマンスと見るべきなのか、それとも、本音とみるべきなのか、私には判然としません。 私の見立てによると、「学者」であることを活かすのであれば、もう少し冷静な書き方をした方が、かえって共感を呼び起こすことができるだろうというものです。

ともあれ、政治運動の様々な主体の声を代弁するものにはなっているのでしょう。 着なれぬ衣装が説得的に機能しているのかは各人の受け取りようかと思いますが、その根拠とする論理は誰にとっても理解しやすいものです。

「憲法違反」。これに始まり、そしておそらく、これに尽きています。

2. 政府の見解: 合憲

「武力の行使は憲法違反、集団的自衛権の行使は憲法違反。だから法案は廃案。」というのは、立憲主義国家では、誰にとっても理解しやすい批判のロジックです。 しかし、私の見るところ、あまりに理解しやすいことは、時に物事を単純化しすぎていることを意味します。政府は、憲法違反という認識で、法案を国会に提出しているのでしょうか。

この問いに対する答えは、「ノー」です。

2.1. 「武力の行使」に関するもの

先の「学者の会」の声明が「憲法違反」と指摘したものは、「武力の行使」に関するものと「集団的自衛権」に関するものの2つに整理できます。

本記事では、後者について議論を集中させたいので、前者については手短に法案のポイントを押さえるにとどめます。 一言で言うと、「武力の行使」は広い意味で個別的自衛権の範疇内に制限されているので、憲法違反には該当しないというのが政府の見解の主旨でしょう。

「武力の行使」に関するもので憲法違反になるのは具体的にはどの改正のことなのか、「学者の会」の声明の文意からは明確に読み取ることができませんが、 おそらく、自衛隊法(第95条の2)の改正「米軍等の部隊の武器等の防護のための武器の使用」のことだと思われます。 このミスリーディングで不用心なタイトルの改正の中身は、 「自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している米軍等の部隊の武器等であれば、当該武器等を防護するための武器の使用を自衛官が行うことができるようにする。」というものです。

私の見立てによると、「学者の会」は自衛隊法(第95条の2)の改正を、次のようなものとして受け取っています。

「米軍等が主体となって行う対外的な軍事活動に自衛隊が駆り出される。そして、米軍等の部隊の武器を防護するために自衛官が武器を使用するようになる。 これは、日本が自国の防衛とは何ら関係のない戦場で、自衛官が武力を行使することに道を開くものに他ならない。実に怪しからんことだ。」

しかし、自衛隊法(第95条の2)の改正の文面を素直に受け取ると、その理解は次のようなものになるでしょう。

「日本が自国の防衛に資する活動をしている最中、ともに日本の防衛活動をしている米軍等の部隊の武器等を、日本が自国の武器等を防護するのと同様に、防護できるようにしましょう。」

つまり、「武力の行使」は広い意味で個別的自衛権の範疇内に制限されています。 最高裁判所の判例に反旗を翻し、学説的に主流とは言いがたい「個別的自衛権の行使も憲法違反である」という解釈をする方々にとっては、いずれにしても「憲法違反」でしょう。 しかし、行政的には社会で通用している憲法解釈をするのが当然です。ゆえに、自衛隊法(第95条の2)の改正が「憲法違反」であるという批判の矢は、政府の心を射止めないでしょう。

2.2. 「集団的自衛権」に関するもの

「行政的には社会で通用している憲法解釈をするのが当然」のハズなのに、そうなっていないのではないかという指摘があるのが、後者の「集団的自衛権」に関するものです。

日本国憲法は「集団的自衛権」の行使を認めていないというのが、通例の解釈です。しかし、今般の法案には、「存立危機事態」であれば、限定的に「集団的自衛権」を行使できるという思想が盛り込まれています。

これは、通例の解釈を逸脱していることから、憲法違反に該当するのではないでしょうか。

この問いに対する政府の答えは、案の定、「ノー」です。

平成27年6月4日、衆議院憲法審査会に参考人として呼ばれた憲法学者3名は、全員、「集団的自衛権」の行使を容認することは憲法違反であると表明しました。 それがどれぐらい青天の霹靂だったのかどうかはわかりませんが、政府は、間髪は入る程度のタイミングで、「憲法違反には該当しない。」という主旨の文書を、政治・報道関係者等に撒きます。 その文書は、「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」(平成27年6月9日付け内閣官房、内閣法制局連名文書)です。(なお、「新三要件」とは、ここでいうところの「集団的自衛権」を行使するための要件のことです。)

この文書のうち、限定的に「集団的自衛権」を行使できるとしたロジックを、以下、手早く要約します。 (全文は、本記事の「5.1. 「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」(平成27年6月9日付け内閣官房、内閣法制局連名文書)[全文]」に付録しています。興味のある方はご覧ください。)

1 「新三要件」は、憲法第9条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるとした「昭和47年の政府見解」の基本的な論理を維持したものである。 その見解とは、
(1) 憲法前文(平和的生存権)と憲法第13条(幸福追求権)の旨からは、憲法9条が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは到底解されない。 この理解は、砂川事件最高裁判所の判示(昭和34年)と軌を一にするものでもある。
(2) 平和主義を基本原則とする憲法が、自衛のための措置を無際限に認めているとは解されない。自衛のための措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。
(3) 武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる。他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。

2 一方、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容し、変化し続けている。 この状況を考慮すると、今後、他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、様態によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。

3 そこで、「昭和47年の政府見解」の(1)、(2)の基本的な論理を維持し、(3)については、従来の場合に加え、 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危機がある」場合も当てはまるとした。

4 したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。

3. 筆者の見解: 合憲だけど「クラゲの骨」

以上、「集団的自衛権」の憲法解釈についての世間の政治運動でみられる意見と政府の見解を眺めました。

それぞれを公平に眺めるよう試みても、私の理解では、政府の示したロジックの方が、論理としては説得力があります。

世間の政治運動で時折用いられる行き過ぎた言葉遣い(戦争法案反対!など)は、運動当事者の連帯意識を高揚させるのには有効かもしれませんが、 法案の中身を精査していれば普通は用いないと思われる種類のものに、私には思われます。

また、一部の憲法学者が、「政府が砂川事件最高裁判所の判示を集団的自衛権の行使容認の根拠に使っている。誠に怪しからん。」という主旨の批判をしているようですが、 「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」を本当に読んでいれば、そのような言葉遣いはできないと思います。 当該文書が砂川事件の判示に触れているのは、日本国には個別的自衛権があることを確認する文脈の中です。 法解釈の整合性を緻密に検討するトレーニングを積んでいるハズの学者の先生が、法律以外の文書を扱う時にはその緻密さを何故か失ってしまうのを眺めると、私はとても残念な気持ちになります。

まずは落ち着いて、法案の中身をよく読んでから何か発言したり、運動したりしないと、法案の中身を熟知している政府の堅牢なロジックには、太刀打ちすることはできません。 私の見立てによると、政府のいう「集団的自衛権」は、政府が示したロジックのとおり、概念的には合憲です。

しかし、私の見解は少し別のところにあります。政府のいう「集団的自衛権」は、概念的には合憲だけれども、具体的には「それは一体何だ?」というものです。

3.1. 政府のいう「集団的自衛権」は、実のところ「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」

「集団的自衛権」という言葉は世の中でよく流通するようになりましたが、実は、その言葉の意味は然程自明ではありません。 一部の識者が「集団的自衛権は国際法上認められた各国固有の権利である。」という発言をする際、 その発言の根拠となっているのは国連憲章第51条のことだと思われます。しかし、その当の国連憲章は「集団的自衛権」がどのような権利であるかを定義していません。

国際法的に内容が不明確な「集団的自衛権」をどう理解したらよいかは、精緻に考究すればそれだけで論文が書けそうな内容な気がするので、深く立ち入りません。 ここでは、通念、「集団的自衛権」はどのようなものとして理解されているのかを、確認します。

通念、「集団的自衛権」の意味は、「個別的自衛権」と対比することであぶり出され、世の中の言説流通網にのっていると思われます。 例えば、そのあぶり出しは、概ね次のようなものでしょう。

(「個別的自衛権」の通念的理解の一例)
「自国が、他国によって侵攻や武力攻撃を受けた時に、自国が自国を守るための措置を行使できる権利」

(「集団的自衛権」の通念的理解の一例)
「自国の仲間の国が、他国によって侵攻や武力攻撃を受けた時に、自国が自国の仲間の国を守るための措置を行使できる権利」

政府のロジックを丁寧に見返してみると、政府のいう「集団的自衛権」は、通念的理解での「集団的自衛権」とは似て非なるものであることがわかります。 政府のいう「集団的自衛権」は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危機がある」場合に行使できるとされるものです。 これを、先の通念的理解と、対句となるように言葉を配置すると、次のようになります。

(政府のいう「集団的自衛権」の簡略的理解)
「自国の仲間の国が、他国によって侵攻や武力攻撃を受けた時に、自国が自国を守るための措置を行使できる権利」

一読して、読者のみなさんが「?」と感じられたとしたら、私の意図は十分達成されたことになります。意味が通りません。

この意味の通らないアクロバティックな概念上の結合関係は、ある意味、政府が「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性」を保つことに最大限注意を払ってきたことを黙示していると、私は理解しています。

私の見立てによると、政府は、通念的理解の「集団的自衛権」(仲間の国が攻撃を受けた時、仲間の国を守るための措置を行使できる権利)は、多くの憲法学者と同様、憲法解釈上正当化できないと考えています。 そして、政府は、多くの憲法学者と同様、憲法解釈上正当化できるのは、「個別的自衛権」に限られると考えています。

それゆえ、同盟国支援をしたいという政府の欲求を、憲法解釈上正当化できる形に加工しようとしたら、「個別的自衛」という処理装置を経る必要があるのです。 その処理装置を経てできあがったのは、「集団的自衛権」ではありません。実際のところは、「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」です。 それが、「個別的自衛権」のパラフレーズの1つであるかぎり、概念的には合憲ということになります。

しかし、それは一体何を言いたい概念なのでしょうか。 より具体的には、政府のいう「集団的自衛権」を行使できるための要件である、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」 とは、どんな事態のことなのでしょうか。

3.2. 政府のいう「集団的自衛権」が行使できるための要件である「存立危機事態」とは、どのような事態なのか
3.2.1. オフィシャルには「あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難」

「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」は、 自衛隊法改正案の防衛出動に関する規定(第76条の2)に「存立危機事態」として追加されています。 「存立危機事態」に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、内閣総理大臣は国会の承認を得て、自衛隊の全部又は一部の出動を命じることができるとされています。

なぜ政府は、「存立危機事態」なるものを想定するに至ったのでしょうか。 政府の問題意識に相当する部分を、「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」から引用します。

(問題意識)
「パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている現状を踏まえれば、 今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、様態等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。」

強壮な言葉がならんでいますが、互いの具体的な論理関係が必ずしも明瞭ではなく、私の感覚では、言葉が踊っているように見えます。 この背景から、「存立危機事態」とは具体的にはどのような事態なのかを読み取ることはできません。

強烈な香ばしさを放っているのは、同文書中に、「存立危機事態」を含む新三要件について、次のような文章があることです。

「なお、ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、 事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意志・能力、事態の発生場所、その規模、様態、推移などの要素を総合的に考慮し、 我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難」

わたしの理解では、問題意識は、具体的な事例が想定されるから生じるものです。具体的な事例を想定していない問題意識は、正確に言えば、不安という心境です。

なので、政府が問題意識を持っているのが正しいとすると、「あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難」とするのは、不誠実に思われます。 他方、政府が問題意識を持っているのが正しくないとすると、政府は漠然とした不安によって「存立危機事態」なる概念を弄し、国民を振り回そうとしていることになるので、やはり、不誠実に思われます。

実際のところ、政府は具体的な事例を想定しているからこそ、問題意識を持っているのだと、私は解釈しています。

3.2.2. 政府が与党協議会に提示した「事例集」

その一端をうかがい知ることができるものがあります。平成26年5月27日、政府は、自民党と公明党によって構成された「安全保障法制整備に関する与党協議会」に対して、「事例集」というものを提示したとされています。

「事例集」は、現在の憲法解釈・法制度では対処に支障がある事例を集めたものです。 与党協議会は「事例集」の各事例を踏まえて協議を進め、平成26年7月1日、新たな安全保障法制の整備のための基本方針を了承。 同日、今般の法改正の基本的な方向性を定めた同方針は閣議決定されています。それゆえ、「事例集」は今般の法改正に際して、多分に参照されたものであると考えられます。

「事例集」に収載された事例は15事例+1参考事例と言われています。 これらの事例は、「武力攻撃に至らない侵害への対処」(3事例+1参考事例)、「国連PKOを含む国際協力等」(4事例)、「「武力の行使」に当たり得る活動」(8事例)の3つに大別されています。

これら3つのうち、いわゆる「集団的自衛権」に関係する事例は、「「武力の行使」に当たり得る活動」に分類されると考えるのが妥当でしょう。 「「武力の行使」に当たり得る活動」とは、具体的には次のとおりです。(註:事例のナンバーは「事例集」のナンバーに依拠。)

(「武力の行使」に当たり得る活動)
事例8: 邦人輸送中の米輸送艦の防護
事例9: 武力攻撃を受けている米艦の防護
事例10: 強制的な停船検査
事例11: 米国に向け我が国上空を横切る弾道ミサイル迎撃
事例12: 弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
事例13: 米本土が武力攻撃を受け、我が国近隣で作戦を行う時の米艦防護
事例14: 国際的な機雷掃海活動への参加
事例15: 民間船舶の国際共同護衛

これらの事例のうち、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」に該当するものは、あるでしょうか。

まず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」に該当する事例は、素直な受け取り方をすると、「事例11: 米国に向け我が国上空を横切る弾道ミサイル迎撃」と「事例13: 米本土が武力攻撃を受け、我が国近隣で作戦を行う時の米艦防護」の2事例でしょう。 そして、おそらく政府は、政府のいう「集団的自衛権」を行使して、これらをやりたがっているのだと推察します。 (「事例9: 武力攻撃を受けている米艦の防護」は米国の戦力に対する攻撃なので、これを米国に対する攻撃と解釈するのはやり過ぎでしょう。 また、「事例12: 弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護」は、まだ武力攻撃が発生していない段階のことなので、これを「他国に対する武力攻撃が発生し」として読むことは、やはり、やり過ぎでしょう。)

しかし、事例11や事例13が、「これにより我が国の存立が脅かされ」の部分に該当するかどうかといえば、普通の感覚だと、該当しないと思われます。 もしこれを該当するように解釈するなら、飛躍的かつおそらく破滅的な発想が必要です。

「事例11: 米国に向け我が国上空を横切る弾道ミサイル迎撃」の場合だと、次のような発想でしょう。

「弾道ミサイルが米国に向けて発射されていることは間違いない。しかし、弾道ミサイルが整備不良で我が国に着弾するかもしれない。これは考えるだけでもゾッとすることだ。 つまり、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態であり、我が国の存立が脅かされる事態に他ならないのではないだろうか。よって迎撃だ!」

・・・きっと、弾道ミサイルを米国に発射した国は、当初関係ないと想定していた日本が弾道ミサイルを迎撃したことを受けて、日本を敵性国とみなすようになるでしょう。

「事例13: 米本土が武力攻撃を受け、我が国近隣で作戦を行う時の米艦防護」の場合だと、次のような発想でしょう。

「米国本土が武力攻撃を受け、我が国近辺で作戦行動を行うようだ。米国本土を攻撃した国は、現状、我が国を敵とは名指ししていない。 しかし、我が国の近隣で作戦行動が行われる以上、米国本土を攻撃した国が発射した流れ弾が、我が国に着弾するかもしれない。これは考えるだけでもゾッとすることだ。 つまり、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態であり、我が国の存立が脅かされる事態に他ならないのではないだろうか。 そのような、存立危機事態に国民をさらすことになるのは、米国本土を攻撃した国が悪いからに他ならない。よって我が国は米艦を防護するぞ!」

・・・きっと、米国本土を攻撃した国は、当初関係ないと想定していた日本に敵だと名指しされたことを受けて、日本を敵性国とみなすようになるでしょう。

私の想像力が貧弱なのか、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したことを契機にして「我が国の存立が脅かされる」ことを具体的にシミュレートすると、 我が国と密接な関係にある他国に対して武力攻撃をした国が日本を敵性国と名指ししていない条件では、日本があえて自ら敵をつくり出すような行為をすることで、 その結果、自ら「我が国の存立が脅かされる」ことを招くことにしかなりません。「何もそこまで破滅的なアピールをしなくても・・・」と諌めたい気持ちになってしまいます。

他方、我が国と密接な関係にある他国に対して武力攻撃をした国が、あわせて日本を敵性国と名指ししている条件であれば、 通常の「個別的自衛権」で対応できます。この場合、政府のいう「集団的自衛権」は全然不要な概念です。

私の見立てでは、政府のいう「集団的自衛権」は、概念的には合憲ですが「クラゲの骨」です。 政府のいう「集団的自衛権」を行使できる事態は、ほとんど空想上のものであって、実際に該当する意味のある事態を想定できません。 政府は「我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制を整備」するため、 現実と空想の切れ目もない、徹底した抜け目のなさをもって「平和安全法制」に係る法案を準備したのでしょう。

4. 私たちは本件についてどのような希望をもつとよいのかについて、筆者が推奨したいこと

以上、政府のいう「集団的自衛権」について、筆者の見解を眺めてきました。やや長大な文章でしたので、以下のとおり整理します。

(筆者の見解のまとめ)
(1)政府のいう「集団的自衛権」は、実際のところ、「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」
(2)政府のいう「集団的自衛権」は、「個別的自衛権」のパラフレーズの1つであるかぎり、概念的には合憲
(3)政府のいう「集団的自衛権」を行使できる事態は、現実的で意味のある想定ができない、ほとんど空想上のもの

この見解をもとにして、私たちは本件についてどのような希望をもつとよいのかについて、筆者は次のことを推奨したいです。

4.1. まず「違憲/合憲」、「廃案/強行採決」などの破壊的な言葉遣いをやめること

これは、筆者の見解の(1)と(2)に関わります。現状、世間の政治運動と政府との間には、政治的・感情的な亀裂が生じていて、関係がこじれているように思われます。 私の見立てでは、その政治的・感情的亀裂を広げはするけれども、修復はしない決定的な言葉遣いは、「違憲/合憲」、「廃案/強行採決」という二分法的な破壊的な言葉遣いです。 それゆえ、まずはこのような言葉遣いをやめることを推奨します。

特に、法案に反対する根拠として「憲法違反」を掲げることは、厳しい言い方ですが、すれ違いを繰り返すだけの無益なことだと認識した方がよいでしょう。 (私の見解の(1)、(2)のとおり、政府のいう「集団的自衛権」は、実はそれが「個別的自衛権」の類である限り、どうひねっても概念上は合憲です。)

世間の政治運動に関わっている方には、「政治運動はその主張が苛烈なほど、気分が高揚する。今我々に必要なのは、和解ではなく、亀裂だ!」と主張する方がいらっしゃるかもしれません。 しかし、もし本当に政策に影響を与えたいと考えているのでしたら、私の理解によると、そのアプローチはおすすめできません。

時の内閣総理大臣が、「国民の理解は深まっていないという認識はあるが、採決する。」と踏み切った(踏み切れる)のは、 私の心理学によると、国民の理解はそもそも深まらないものであるという極めて深い諦念を、彼は幼少時の出来事を契機に抱いているからです。

彼の政治信条や方針を披瀝した書籍である「新しい国へ 美しい国へ 完全版」の「第一章 わたしの原点」という、あからさまなタイトルの章には、 1960年の日米安全保障条約成立に際して、当時の首相であり現首相の祖父である岸信介との、無垢なエピソードがつづられています。引用します。

「わたしは、祖父に「アンポって、なあに」と聞いた。すると祖父が、
「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。なんでみんな反対するのかわからないよ」
そう答えたのをかすかに覚えている。」

そして、彼はその日米安全保障条約の政治的成果、意義を吟味できるようなるにつれて、祖父の偉大さを感得するとともに、次のような信念を形成するに至ります。

「間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか。長じるにしたがって、わたしは、そう思うようになった。」

きっと現在は、現首相として、「平和安全法制」の策定を、反対の声が大きい中進めている自分は、尊敬する祖父と同じ境遇にいるのだと、感慨深く思っていることでしょう。 そして、政治的成果のために、祖父と同じ歴史を繰り返すことを、「闘う政治家」としての政治的宿命を背負った英雄的行為だと心のどこかで感じていることでしょう。 そのあたりのプルーデンスな(:怜悧な=思慮深い)政治感覚は、彼が純粋な意味での世襲議員であることの特徴だと私には思われます。

それゆえ、「亀裂だ!」と政府に向かって叫んでも、政府から引き出せるものは、「耳を貸さない者には、耳を貸さない。我々はやるべきことを粛々と進めるだけだ。」という、 市民感覚からすると冷たい、政治感覚からすると当たり前の態度だけです。

世間の政治運動は、パフォーマティブな運動をするよりも先に、実際に政府の政策に影響を与えることができるような現実的な回路を構築するよう試みた方がよいです。 これは、本件に限らず、一般的な課題であると、私は考えます。

その回路をつくるためには、「全か無か」という、政治的・政策的には馴染まない言葉遣いをするのをやめて、 政治的・政策的な言い分を理解し、「どんな案配か」という、共通言語をしゃべれるようにならなければなりません。 そして、共通の言語でしゃべることができ、「共通の土俵」を見つけることができれば、政治運動は実際に政府の政策に影響を与えるような、政治力学の作用力を担うようになるでしょう。

4.2. 次に、本件で本当に問題になっているのは「集団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」のあり方だということを冷静に受け止めること

本件で「共通の土俵」の候補となると私が考えているのは、「個別的自衛権」です。これは私の見解の(1)に関わります。

「本件で本当に問題になっているのは「集団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」のあり方だということを冷静に受け止めること」という私の推奨を、 実践的な言葉で言いかえると、これは、議論を混乱させるだけの概念である「集団的自衛権」という言葉遣いをやめようという提案です。

私たちが気にかけることができ、気にかけるべきは、どこまでも「個別的自衛権」に限られていること。 憲法解釈上物議を醸さないこの力学場の中であれば、多様な政治的アクター間で「個別的自衛権」を「どんな案配にするか」ということを、政治力学的に調整することができると考えられます。

4.3. そして、「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について、国民レベルで時間をかけて議論を深めること

これは、私の見解の(3)に関係しています。「個別的自衛」という概念を、具体的に考えると、これも然程自明な概念ではないことがわかります。

例えば、政府のいう「集団的自衛権」という衣をまとった「個別的自衛権」のように、具体的に考究すると、私の見解の(3)のとおり、うまく機能しそうにないことが明らかになるような個別的自衛もあります。

それゆえ、「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について、政府と国民が一体となって、様々な想定を継続的に検討してみることが、大切です。 そして、これはとても有益なことだと私は考えます。

というのも、このような検討を重ねることは、ある事態が「個別的自衛権」を行使するのが相当な事態かどうかについての社会的コンセンサスを、あらかじめ醸成することにつながるからです。 このことは、本当に「個別的自衛権」を行使しなければ対応できない有事の際に、機動的に文民(政治家)が政治判断するのを助け、日本の被る損害を出来る限り小さくすることに寄与することでしょう。

以上、私が推奨したいことを次のとおりまとめて、本記事を締めくくります。ここまで読み進められた方、おつかれさまでした。

(わたしが推奨したいことのまとめ)
エネルギッシュに「違憲/合憲」、「廃案/強行採決」、「集団的自衛権」といった言葉遣いをするのは、非生産的なのでやめにしましょう。 余ったエネルギーは、「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について議論するために振り向けましょう。

5. 付録

5.1. 「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」(平成27年6月9日付け内閣官房、内閣法制局連名文書)[全文]

内閣官房、内閣法制局の連名で発出された本文書は、当の内閣官房、内閣法制局のウェブサイトでは公表されていません。 私が本文書の原文を初めて目にしたのは、平成27年6月10日の朝日新聞の朝刊でした。

内閣官房、内閣法制局のウェブサイトに文書の正本があれば、根拠文書として高いレベルでオーソライズできたのですが、叶わぬことでしたので、本文書の全文が気になる方向けへの紹介としては、私が写したもので、代用したいと思います。 なお、正確を期するため、複数のウェブサイト(衆議院議員 神山佐一オフィシャルウェブサイト荻上チキ・Session-22)に掲載されてある同文書と記述を比較検討し、整合していることを申し添えます。

(以下全文です。)------------------------------------

新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について

平成27年6月9日
内閣官房
内閣法制局

(従前の解釈との論理的整合性等について)

1 「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)でお示しした「武力の行使」の三要件(以下「新三要件」という。)は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第9条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和47年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである。この昭和47年の政府見解においては、
(1) まず、「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が…平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、…国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」としている。この部分は、昭和34年12月16日の砂川事件最高裁大法廷判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものである。
(2) 次に、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」として、このような場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという基本的な論理を示している。
(3) その上で、結論として、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」として、(1)及び(2)の基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという見解が述べられている。

2 一方、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。新三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和47年の政府見解の(1)及び(2)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものである。したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。

3 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである。

(明確性について)

4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。
 その上で、第一要件においては、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明らかにするとともに、第二要件においては、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」とし、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、第三要件においては、これまで通り、我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明らかにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。
 なお、ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、「あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である」とお答えしてきたところと同じである。

(結論)

5 以上のとおり、新三要件は、従前の憲法解釈との論理的整合性等が十分に保たれている。

本記事作成の際に参考にしたもの

[1] 内閣官房ら, 2015. 「平和安全法制」の概要 [内閣官房ウェブサイト]

[2] 中内康夫, 2014. 集団的自衛権の行使容認と安全保障法制整備の基本方針― 閣議決定を受けての国会論戦の概要 ―, 立法と調査(356):23-40 [参議院ウェブサイト]

[3] 安倍晋三, 2013. 新しい国へ 美しい国へ 完全版, 文春新書[文芸春秋ウェブサイト]


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